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集英社の梅原猛著作集4で『地獄の思想』を読んでみた。この著作集には自序がついている。その中にとても愉しい文があったので、引用してみる。
「その頃、ちょうど中央公論社の野中正孝氏が、奈良本辰也氏の、私に地獄を書かせてはという勧めで「地獄の思想」なる著書の依頼に私を訪れたが、私は野中氏にすげなくことわった。しかし、それからニ年後、今度は故高橋和巳氏の勧めで、竹見久富氏が同じ提案をもって私を訪れた時、私は、それを積極的に受け入れた。私の中に、地獄を書く気持ちが十二分に醸成されていたからである」
極めて説明的な文章であるが、「地獄を書かせる」「地獄を書く」という編集者と物書きのやりとりが、とても愉しいと思う。「地獄を書く」というのは対象を外から見ての書字とは異なる。地獄の中でレポートするという意味合いで、このあたりは梅原さんらしい捉え方で微笑ましいのであるが、それが、実際に編集者と物書きの間でやりとりされたのだとすると、とてもうらやましく感じるのだ。編集者が「地獄を書けるのは梅原ぐらいだろう」と目星をつけ、「まだそんな気になれないんだよね」と物書きが返す。これは幸福なことだと思う。
物事がかたちになろうとする時の、兆しや期待を感じることは幸せなことだ。資本制の社会から見た時、まだ成果物を提出しない集団は無価値であるが、価値を作るものはそうしたフレームの外に生きている。もしくはそのように生きる土性骨がなければ、実際のところ感情の空疎に苛まれ、地獄へと転落していくのである。
話は変わるが、読了して構成について感じたことがある。
はじめに
第一部 地獄の思想
第二部 地獄の文学
死の美学
これが、全体の構成なのであるが、「第三部 死の美学」とならず、ただ「死の美学」としたのは、仏教の地獄と次元が異なる意識、古墳時代の柿本人麻呂の挽歌から竹田出雲の『仮名手本忠臣蔵』芭蕉の俳句連句へとつながっていく「死の眼」について書かずにはいられなかったからだろうと思う。梅原さんの誠実でもあるし、岡本太郎が言う「対極主義」の好例でもあろう。「矛盾を逆に引き裂くことによって相互を強調させ、その間に起る激しい緊張感」に書く者読む者が刺激を受け、双方に新しい取り組みへとりかかる契機が生ずるというわけだ。
残念ながらこの対極主義は『地獄の思想』において十分に実をつけることができなかったと思う。地獄のボリュームが足らないためである。
地獄の業火に放り込まれた死の美学の氷塊。読み終わった時に「地獄の火が鎮火されてしまったな」と感じた。地獄とは生きる者が持つ苦しみの表現であり、地獄を生む煩悩の後ろには生命がある。意識によって捉えられた生命は、かげろうのようなものにすぎない。それに対して死の方がはるかに現実性があり、平等であり、宇宙的だからだ。
20頁に届かない「死の美学」が、後段から『地獄の思想』を蚕食してく形となったため、読書の快楽では少し足らずの評価をしておこう。
構成によっては、対極の間に爆発を生むこともできたと思うが新書としての限界もある。
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