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mp生涯の副業0号店
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本というのは右から開くのが正しいのか、左から開くのが正しいのか。

日本では、どうやら縦書きの場合は右からページを繰るのが正しいようである。

 ところが翻訳調か論文調の横書き本は、左からページを繰るのが正しいようである。

 どうも同じ日本語であるのに、右から開いたり、左から開いたりでややこしい。混乱のもとである。事実、私は、書類を綴る時には、既成の書籍ではないため、右からだったか、左からだったか、迷う。とくにバラバラの書類を綴るわけだから、縦書きも横書きも含まれており、右から綴るべきか、左から綴るべきか、どちらでも決めてしまえばよいことだけに判断に迷う。いっそ中央から右と左に交互に綴ると時系列に従う整理法なら樹木の年輪のようになって面白いような気もするが、試す勇気はない。

今日仕事で巻物のイラストを描いた。巻物というのは、右利きの多い文化では、軸を左手に持ってくるくると回し、右手で支えて読んでいくものであろう。私は見事に軸を右手で持つようにイラストを描いてしまった。通常の読み方なら、字が天地ひっくりかえってしまうだろう。

身体の自由な動きに従うと、私は縦書きの本であっても左から開いて読んでいきたいのである。そのために、本を買い込んでしばらくの間は末尾からパラパラ冒頭に向かってページを拾い読みし、時間の配列や論理構造を読み取りにくいという抵抗が増すにしたがって、あきらめて右から開き読み始める。

ここに私は、自身の了解の悪さ、滑舌の悪さ、書字の遅さ・無配列の原因の一つがあると思っている。仕事について周囲に求められる軽やかさに応じられず、締め切りを守れない理由でもある。

 

配列を排して、逆撫でするように後ろから読んでいくことが間違いとばかりは言えない。

 

なだいなだのエセー「わかりいそぐこと -黙示録的な世界で-」を後ろから抜き書きしてみた。

 

「十をきいて、一をようやく知る、このような理解を、同一化的な理解と対照をなす、対立的な理解とよぶ」

 

「ドン・ジュアンは、わかりいそがぬ男…最後までわからぬことで、彼はわかってしまった人間たちから切り離され、その孤独を耐えねばならない」

 

「彼は石像と握手して、地獄の火に焼かれることになる」

 

「万能の神が万能なら、なぜ神の存在を啓示するのに、意味ありげな、まわりくどい表現をするのだ、まごうかたない仕方で、自分の存在を証明しようとしないのか」

 

「自分たちの前に黙示録的な世界があるからこそ、わかりいそぐな」

 

「一を聞いて十を知る人にとっては、もうなにもかもわかられてしまっているかも知れません」

 

「三島氏の切腹。彼の首が床の上にころんところがっている光景」

 

「自分が、自分の行動が、はやばやと意味づけられ、評価の重しをつけられてしまうことを感じ、その…世界からのがれだすために、…記憶を失って、自己の存在の重みを軽くする以外の方法がなかった」

 

「一を聞いて十を知るということは、先取り的にものごとを理解することですが、このことに示される聡明さは、意味する主体に同一化することでえられるのです。一を聞いて十を知る聡明さは、親の目から見た子供の美徳で、その逆はかならずしもなりたちません」

 

「うそうそしいとはいえ書かれた歴史は、書かれる必要があったから書かれたのだ」

 

「われわれは、結局、言葉にぶらさがっているのだ。それでどれが上でどれが下だか、わからない状態にある」

 

「自然がいかにあるかを見いだすことが物理学の任務であると考えることは誤りだ。物理学は、われわれが自然について何をいいうるかに関するものだ」

 

「物理学は実在を概念的に把握しようとするくわだてである」

 

「意味を問うな。何故と問うな」

 

「偶然の事件として…自由を与えてやりたい。因果の網の目にひっかかったが、それを網から外して、自由な世界に逃してやりたい」

 

「なぜならば、このことの起こったのは、預言者によって主のいわれた言葉が成就するためである」

 

「福音書の世界の事物には、なにひとつ偶然に、たまたまそこに存在するものはありません。すべては、ある一つの目的のためにそこに存在する」

 

「私たちの世界は解釈病のそれのように、すべて意味あるもので埋めつくされるか、まったきナンセンスのみの世界となるかの、両極端の間に位置している」

 

「「ぼくにはわからんねぇ」と答えを避けようとしました。ところが相手の記者はどうしたことか「わからん」という人間を釈放してくれません」

 

「どうして、こうも、社会の中で起るさまざまな現象を、なんで医者の診断にゆだねたがるのだろう。こんなことをしているうちに、世界中が病院くさくなるではないか」

 

「おやおや、また新しいアソビだな」

 

「現代では、人をイライラさせないような存在証明の仕方はなく、その点ではこのカチカチあそび、この上なく現代的であった」

 

「人気のない、しずまりかえった昼さがりの住宅街を歩きながら、人声も聞えず、人影も見えない家の中から、突然カチカチとあわただしく鳴る音を耳にすると、私は、おやおや、ここにも、まぎれもなく人間が一人いたのかいという気分になるのでした」

 

「一九七一年の春先に、なぜカチカチが爆発的に流行したか」

 

「黙示録的な世界で」

 

「わかりいそぐこと」

 

 タイトルにたどり着いたところで、思うところ。

不安が意味づけをもとめ、世界を因果に結びつけるのだが、自然に対する畏怖が、抽象的な不安にまで変化するのは、分業がひろがり、利益のために能率を求め生活時間を配分するようになってからのことだろうと考える。

 「必要以上は何もしない。自然に実りがある」世界では、宗教(考え方)は黙示録的になりえない。

自由は、不安と同じスペクトルの中にある。「意味を問うな、何故と問うな」は偶然性を肯定した強い意志であるが、普及しづらくシェアしにくい考察である。

 あえてそう書いた筆者は、イライラさせるような人々と一緒に生き続けることを選んだということを示したのであり、いわゆる援助者の中でもその段階に達する者は少ない。自由であるということは、人をイライラさせることであり、自身もまたそうした存在であると客観視できない援助者は、相手を馴致しようと試みては、失敗し、仕事をつらいと思い込むものだ。

さて、アソビというものは能率と無関係であるのが本来の姿である。不安な時代-黙示録的な世界に、アソビが回帰するのは、不安のために同一化しようとわかりいそぐことよりも、可能な脱成長社会に近づくためには、よりよいことだといえる。

 ※「カチカチ」とはアメリカン・クラッカーのことです。

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この頃の精神状態を絵に描いてみました。魂が浮いている感じ。しかし、冴えていない。


Monkey&Star.pdf by Matsumoto Hirofumi



やっぱりお休み頂戴!!

 集英社の梅原猛著作集4で『地獄の思想』を読んでみた。この著作集には自序がついている。その中にとても愉しい文があったので、引用してみる。

 「その頃、ちょうど中央公論社の野中正孝氏が、奈良本辰也氏の、私に地獄を書かせてはという勧めで「地獄の思想」なる著書の依頼に私を訪れたが、私は野中氏にすげなくことわった。しかし、それからニ年後、今度は故高橋和巳氏の勧めで、竹見久富氏が同じ提案をもって私を訪れた時、私は、それを積極的に受け入れた。私の中に、地獄を書く気持ちが十二分に醸成されていたからである」

極めて説明的な文章であるが、「地獄を書かせる」「地獄を書く」という編集者と物書きのやりとりが、とても愉しいと思う。「地獄を書く」というのは対象を外から見ての書字とは異なる。地獄の中でレポートするという意味合いで、このあたりは梅原さんらしい捉え方で微笑ましいのであるが、それが、実際に編集者と物書きの間でやりとりされたのだとすると、とてもうらやましく感じるのだ。編集者が「地獄を書けるのは梅原ぐらいだろう」と目星をつけ、「まだそんな気になれないんだよね」と物書きが返す。これは幸福なことだと思う。

物事がかたちになろうとする時の、兆しや期待を感じることは幸せなことだ。資本制の社会から見た時、まだ成果物を提出しない集団は無価値であるが、価値を作るものはそうしたフレームの外に生きている。もしくはそのように生きる土性骨がなければ、実際のところ感情の空疎に苛まれ、地獄へと転落していくのである。 

話は変わるが、読了して構成について感じたことがある。

はじめに

第一部     地獄の思想

第二部     地獄の文学

死の美学

これが、全体の構成なのであるが、「第三部 死の美学」とならず、ただ「死の美学」としたのは、仏教の地獄と次元が異なる意識、古墳時代の柿本人麻呂の挽歌から竹田出雲の『仮名手本忠臣蔵』芭蕉の俳句連句へとつながっていく「死の眼」について書かずにはいられなかったからだろうと思う。梅原さんの誠実でもあるし、岡本太郎が言う「対極主義」の好例でもあろう。「矛盾を逆に引き裂くことによって相互を強調させ、その間に起る激しい緊張感」に書く者読む者が刺激を受け、双方に新しい取り組みへとりかかる契機が生ずるというわけだ。

残念ながらこの対極主義は『地獄の思想』において十分に実をつけることができなかったと思う。地獄のボリュームが足らないためである。

地獄の業火に放り込まれた死の美学の氷塊。読み終わった時に「地獄の火が鎮火されてしまったな」と感じた。地獄とは生きる者が持つ苦しみの表現であり、地獄を生む煩悩の後ろには生命がある。意識によって捉えられた生命は、かげろうのようなものにすぎない。それに対して死の方がはるかに現実性があり、平等であり、宇宙的だからだ。

20頁に届かない「死の美学」が、後段から『地獄の思想』を蚕食してく形となったため、読書の快楽では少し足らずの評価をしておこう。

構成によっては、対極の間に爆発を生むこともできたと思うが新書としての限界もある。

博士「いやー、ひさしぶりじゃのう!」
助手「あ、博士、この前ロマンティックスをかけてから、急に口数が少なくなって、夜遅いのに、何も言わず研究室から出て行ったのでとても心配してたんですよ…?」
博士「いや、すまなかった…。ふだんから気をつけているのだがな、80年代の毒に当たってしまったのじゃ…なんとなくおぼえてはいるのだがの…」
助手「だいじょぶですか、むりしないでくださいよ」
博士「うむ、だいじょぶじゃ。80年代ミニマル再評価という大目標のためにはわたしの命など…ごほごほ」
助手「わかりました。で、第2回はどのあたりから?」
博士「(こいつ意外と冷たいわい…)うむ。スラロビじゃ」
助手「スラロビというとハービー・ハンコックといっしょに来たブラック・ウフルのバックバンドとして、鮮明なかっこよさを見せ付けたドラムとベースのプロ系コンビですね!」
博士「そのとおりじゃ。スライ&ロビー自体はけっして自分達でジャンルを作れるタイプではないのじゃが、80年代はPファンク系の音とサウンドシステムの音を組み合わせて、実にきまっておったの」

http://www.youtube.com/watch?v=Ra6WJgVt4Y0

博士「おそらく、はじめて来日した時のテレビ放送で、ハービーハンコックのバンドでスクラッチが、そして、スラロビの演奏でブリティッシュレゲェのかっこよさが、日本に伝わったと思うのだがどうじゃの?」
助手「そうですねぇ。今見ると、ブードゥの香りが伝わってくるというか、Zion I というか…」
博士「そうじゃ、ふりかえってみるとマッシブアタックがワイルドバンチだったころはこんな音を荒く鳴らしていたものじゃが、そのあたりの空気を感じて、スタジオでやってみたというのが正体だろうの…ま、プロなのじゃ。では、夜の徘徊をしていたことが伊達ではないぞ、ということをわかってもらうために、次はこれじゃ!」

http://www.youtube.com/watch?v=0nf9zwWjtD4&feature=related

助手「おお、ASWADじゃないですか。シャインとかじゃないんですか?」
博士「うむ、平たくレゲェ全体を見渡すとけっして90年代に入って悪くなったとは言えんのじゃがの。タイトにキマッテおったのは始めのアルバム3枚までかのう」
助手「(…博士がなにかおかしいぞ…なんか、普通に紹介してる!疲れてるのか…)ああ、博士、ところで、夜出歩いてみてどうでしたか?」
博士「そうじゃな…。ん…きれいな月を見た。そうじゃ…月をな…」
助手「月??」
博士「うむ、月じゃ」

http://www.youtube.com/watch?v=BZW112YJB7E&feature=related

助手「これは、クリスチャンズじゃないですか。それもどうやらこの動画、最近ですね。どこかのラジオ番組をユーストしたもの…?!(これが博士がまともなフリをしていた原因か…!博士、もしかしたら、深更の散歩者とかいいながら、ネットカフェにこもって、80年代ロックのyou tube を見てたんじゃ…?)」

(バタ!)椅子からずり落ちる博士、そのエクソシストぽい落ち方に仰天する助手。

助手「あ、博士、どうしたんです!…だいじょぶすか?」
博士「陽が落ちるまで寝てたのじゃ…。それが若さというものだったのじゃ…。そうして時間を無駄にしてしまったのは……お前、お前なのジャー!!」
助手「ギャー!!!」(つづく)


博士「ふっふっふっ…今日は楽しいね、ええ?」
助手「どうしちゃったんですか、博士が、口元スマイルなのに、目が笑っていない時はいやな予感が…おまけに場所かわってるし…」
博士「何、心配はいらんよ、今回は害の少ない80年物で、下手するとAORかという曲ばかりじゃからのう…」
助手「あ!博士この前凹いラジオでマッドマックス好きを批判されたので、復讐しようっていうんでしょう?」
博士「ふん、まだまだじゃのう…ふぅ…。わしはそんな心の小さい人間ではないぞ。というわけで、1曲目はメン・アット・ワークの”Down Under”じゃ」
助手「めっちゃ引きずってるじゃないですか!マッドマックスがより「ぐへー」ってなってるだけじゃないですか!」
博士「ふふ。そうかな…」

http://www.youtube.com/watch?v=MeG-hNXXy6I&feature=related

博士「どうじゃ、よくわかるビデオじゃろ…。凹いところには降りていこうぜというわけじゃ。音も実はミニマルだし、Little Dragonのおじい様みたいなかんじじゃ」
助手「こいつら、絶対パイソンズ見てるっしょ」
博士「うむ、それはそうじゃ。だが、80年代に5分程度のPVにそのエッセンスを詰め込めた奴らはそうおらんのじゃよ。プログレのストーリーテリングや構築的な曲作りは否定されていく時代なのじゃが、遅れてあらわれたビデオの方は相変わらず、ストーリーものが多かったことを考えると、”Down Under"の先進性がわかるのじゃ」
助手「博士のミニマル好き(根気のなさ)はよくわかりましたが、はたしてほんとにそんな流れが80年代にあったかどうか疑わしいのですけど…?」
博士「確かにそうじゃ…。私もまだ検証中なのじゃ…。だが、ストーリーのミニマルと80年代音づくりの稀有な合致の例としてクラシックで、今やほとんど忘れられているロマンティックスの"Talking In Your Sleep"を見てみよう」
助手「…ああ、(演奏の下手な)ビリー・ジョエルがいっぱい!…夢であってほしい…」

http://www.youtube.com/watch?v=HwT9ltDBG14

(続け!)


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貧しさをわかちあう時代だと思って、そのための方法を模索中。のんびりするぜ!
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